松尾芭蕉の俳人としての特徴

松尾芭蕉は江戸時代を代表する俳人で、わびさびを表現した俳風を確立した。芭蕉は伊賀の農民の家に生まれ、奉公で仕えた主君と共に俳諧を始めた。当時、言葉遊びや滑稽が主体の芸能だった俳諧にわびさびを取り込むなど、芸術的な表現を新たに打ち出した。その功績は非常に大きく、後世に俳聖と呼ばれるほどの影響を与えた。
主君と共に俳諧を開始
俳諧を始めたのは主君の主計良忠と共に北村季吟の師事した19歳頃で、四年後に主計良忠が亡くなるとその遺骨を高野山に納めたが、無常を感じて一所不在の身で俳諧に専念することになったといわれる。29歳頃に「雲とへだつ友かや雁の生き別れ」(白井鳥酔編『冬扇一路』)を詠んで江戸に下るが、その間の6年程の動向は不明になっており、良忠の死の直後に江戸へ向かって北村季吟に古典を学び、修行僧として禅寺に入っていたとする説もある。
芸術的な表現を持つ俳聖
俳聖と呼ばれる。和歌の余興の滑稽や諧謔を主としていた俳諧を芸術的な表現で捉え直したことが後世の俳句の成立に大きな影響を与えた。又、旅に生きる姿や独自の風格のある表現が聖人のように受け取られもする。
年月を経て芭風を確立
作風に幾つかの変遷がある。宗房と名乗った24歳から31歳頃までは貞門派で、古典の素養を重んじながら掛詞や見立てや頓知といった発想も交えて詠まれた。桃青と名乗った32歳から38歳頃までは談林派で、古典の素養を重んじつつも軽口や無心所着(和歌で纏まりのないこと)のような笑いも込めて詠まれた。芭蕉と名乗った39歳以降、芭風と呼ばれる独自の表現が確立される。
大自然と一体化する生き方
芭風にも幾つかの変遷がある。大きく分けると『おくのほそ道』とその前後となる。最初の『野ざらし紀行』の46歳頃は虚栗調/漢文調とそこからの脱却の試みとして侘びの境地を捉えた。中盤の『おくのほそ道』の46歳頃は芭風の完成と目される不易流行の心構えが見いだされてさび・しをり・細みという方法も掴まれた。最後の『別座鋪』の51歳頃から死に至るまで最も重視されたのは軽みで、本人の言葉では「浅き砂川を見るごとく、句の形、付心ともに軽き」(子珊編『別座鋪』)という新境地が開かれた。心の葛藤を取り払って無私へ向かう。大自然と一体化する生き方に近い。和歌に由来する風雅を平易な感覚として捉えるように通俗的な日常の中で自らが美しく引き付けられる何かをさり気なく詠む。
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