松尾芭蕉の生涯の際立った事柄

松尾芭蕉は江戸時代前期の俳人で、俳諧紀行の『おくのほそ道』が世界で愛読される代表作である。芭蕉は生涯に多くの旅に出たが、45歳頃に弟子の河合曾良を伴って江戸から奥州、北陸道へ向かったものが『おくのほそ道』に纏められた。約五ヵ月600里(2400km)の長旅で、数々の名句が収められることで有名である。
北村季吟に師事して俳諧を学ぶ
1662年のエピソード
芭蕉は主君の主計良忠と共に北村季吟に師事して俳諧を学ぶ。年末に詠んだ「春や来し年や行けん小晦日」が最初の句と考えられている。
第一句集の『貝おほひ』を奉納
1672年のエピソード
芭蕉は第一句集の『貝おほひ』を伊賀国上野の菅原社(上野天神宮)に奉納する。三十番の発句合で、宗房の俳号で刊行された。
職業的な俳諧師へ独立
1678年のエピソード
芭蕉は前年かこの年に宗匠となって文机を持ち、職業的な俳諧師へと独立した。京都から江戸に来ていた信徳(助左衛門)、江戸の信章(山口素堂)との三吟百韻の『桃青三百韻附両吟二百韻』が桃青の俳号で刊行された。奇抜な着想や見立てと軽妙な言い回しを特色とする談林派の影響が強かった。
江戸の深川の草庵での隠遁生活
1680年のエピソード
芭蕉は点業を辞めて江戸の深川の草庵で隠遁生活に入る。理由は良く分からない。点業の日々に飽きたか、日本橋の家を火事で焼け出されたか、談林派の句に限界を見たか。何れにせよ、この頃から老荘思想/道教に触発されて道/自然の理に則った生き方に憧れていたようだ。特に荘子の影響が強く、無為自然(あるがまま)を徹底して俗世間を離れる傾向が増していた。
侘びの境地に触れ始めた芭蕉庵
1681年のエピソード
芭蕉は弟子の李下から贈られた芭蕉を草庵に植えた。暫くして「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな」を詠んだ。雨漏りが絶えない侘び住まいが尊敬する杜甫の境遇と似ていたことを慰めと感じた。草庵も芭蕉庵と呼ばれるようになった。又、「侘びて澄め月侘斎が奈良茶歌」を詠み、「奈良茶三石喰ふて後、はじめて俳諧の意味を知るべし」と弟子に語ったと伝えられる(各務支考『俳諧十論)。奈良茶は奈良の東大寺などで食べる茶粥で、煎った大豆や小豆などを入れた質素な食事、月侘斎は侘び住まいの隠士で、芭蕉自身を指す。侘びの境地に触れたことが芭風の確立を予感させる。
芭蕉の俳号で俳句を詠み始める
1682年のエピソード
芭蕉は芭蕉の俳号を使って望月千春編『武蔵曲』に6句が入集する。なぜ芭蕉の俳号を使ったかは前年に弟子の李下から贈られて草庵に植えた芭蕉に因んだと考えられる。
旅に生きる思いの強まり
1683年のエピソード
芭蕉の句を収めた宝井其角編『虚栗』が刊行される。漢語、字余り、破調などが特徴の虚栗調/漢文調で詠まれた。芭蕉自身は荘子の胡蝶の夢のような虚実の分かたれない表現が特徴的にあった。又、笠を最小の庵と捉えて逆に芭蕉庵も旅の笠と見立てるなど、旅に生きる思いが強まって来たようだ。
俳諧紀行『野ざらしの紀行』の旅
1684年のエピソード
発句「野ざらしを心に風のしむ身哉」を作り、弟子の千里を伴って『野ざらしの紀行』の旅に出た。悲壮な覚悟で臨んだが、途中から気負いなく、穏やかな心境に変わった。作風も虚栗調/漢文調だったのが見聞きしたものを素直に、侘びを率直に反映するようになった。
俳諧紀行『笈の小文』の旅
1687年から88年のエピソード
芭蕉は『笈の小文』の旅に出た。父の三十三回忌の法要と名古屋や大垣方面の門人の招請に応じる意図もあったようだ。旅立ちの「旅人と我が名呼ばれん初時雨」には意欲が溢れている。本に纏めて出版したのは弟子の乙州で、芭蕉の死後の1709年になるが、風雅論、紀行文論、旅行論などに芸術観を窺い知ることのできる重要な作品に仕上がっている。又、旅の終盤の江戸への帰路は『笈の小文』の付録として別に『更科紀行』に纏められた。信濃国(長野県)更科の姥捨山の月を見ることが大きな目的の一つで、「俤や姥ひとり泣く月の友」が姥捨伝説(山に老人を捨てに行く物語)を主題として詠まれて自信作と認めていたそうだ。
俳諧紀行『おくのほそ道』の旅
1689年のエピソード
芭蕉は弟子の曾良を伴って『おくのほそ道』の旅に出た。東北各地の西行や能因らの歌枕や名所旧跡を辿る目的があった。旅立ちの「行く春や鳥啼魚の目は泪」には人々との別れに未知の長旅の不安や恐れが滲み出ている。芭蕉の死後、1702年に出版された『おくのほそ道』は後世に語り継がれる名句を多く収めると共に不易流行(変わらないものを大事にしながら変わり行くものも取り入れる)という独自の理念の基礎を築いた芭蕉の最も有名な作品になる。
俳諧撰集『猿蓑』を手がける
1691年のエピソード
芭蕉は弟子の去来と凡兆と共に俳諧撰集『猿蓑』を編纂して刊行する。書名は巻頭に置かれた芭蕉の句、「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」から取られた。芭蕉、去来、凡兆、其角の他、百人以上の句を収め、芭門の俳人が網羅される。弟子の許六は「俳諧の古今集也」(『宇陀法師』)と、支考は「猿蓑集に至りて全く花実を備ふ」(『発願文』)と評するなど、芭蕉の『おくのほそ道』の行脚による新風を具現した傑作と捉えられる。
病中吟を残しながら他界
1694年のエピソード
芭蕉は病気により、50歳で亡くなった。病床で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」を最後に詠んだとされる。この句は病中吟とされるが、芭蕉は「平生即ち辞世なり」(路通『芭蕉翁行状記』)と考えていたため、自身の臨終に合わせて辞世の句を特別に詠むことはしなかった。
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