クレーの天使連作について 結城永人 -9月 01, 2025 クレーの天使連作が問いかけるもの Vergesslicher Engel by Paul Klee / Public domain 20世紀を代表する画家パウル・クレーが晩年に集中的に描いた天使連作は、単なる画家の創作モチーフの一つに留まらない。このシリーズは、クレーの芸術理論、個人的な苦難、そして彼が生きた時代の歴史的悲劇が凝縮された、比類なき芸術的遺産である。本稿では、クレーの天使たちが、彼の個人的な体験と時代の苦悩が重なり合う中でいかにして誕生したかを詳述し、その独特な造形が持つ象徴的な意味を深く掘り下げる。 また、特筆すべきは、クレーの作品がユダヤ人思想家ヴァルター・ベンヤミンの歴史哲学と運命的に結びついた点である。ベンヤミンはクレーの特定の天使像に触発され、20世紀の進歩の概念を痛烈に批判する独自の歴史観を構築した。この芸術と哲学の稀有な邂逅は、作品の持つ意味を単なる美術史の領域を超えた、思想史的な重要性へと高めている。本報告は、クレーが天使という存在を通して、人間が直面する生と死、希望と絶望、そして歴史の真実をいかに描き出したかを包括的に論じるものである。 個人的な悲劇と創作への回帰:病、そして生への執念 Es Weint by Paul Klee / Public domain クレーが天使連作を描き始めた背景には、彼自身の個人的な苦悩と、時代の政治的な抑圧という二重の悲劇が存在した。この時期の作品群は、クレーの絶望と生への執念の狭間で生まれた、魂の記録ともいえる。 晩年のクレーを襲った病:皮膚硬化症と手の自由の喪失 1935年、クレーは全身性強皮症という難病を患い、その症状は彼から身体の自由、とりわけ画家にとって致命的な手の自由を奪っていった。疲労、皮膚の発疹、嚥下困難、息切れ、手の関節の痛みなどが彼を蝕んだ。緻密な線描や繊細な色彩表現を得意としていたクレーにとって、この病は創作活動の根幹を揺るがす危機であった。 しかし、この身体的な苦痛は、クレーの創作意欲を奪うことはなかった。むしろ、その絶望的な状況が、彼の創作活動を驚くべき方向へと導いたのである。病の進行により従来の精巧な技術が困難になるにつれ、クレーは簡素で力強い線描へと回帰した。この手法の転換は、彼の芸術を表面的な装飾性から解放し、より本質的な精神性へと向かわせた。その結果、彼の制作点数は驚異的に増加し、亡くなる前年の1939年には実に1253点もの作品を残している。これは単なる多作ではなく、死を目前にした画家が、限られた時間の中で生を全うしようとする不屈の精神と、尽きることのない創作への執念が結実したものであった。 ナチスの台頭と亡命:時代の苦悩を映す天使の表情 クレーの個人的な苦難は、彼が生きた時代の政治的苦悩とも深く結びついていた。1933年にナチスが政権を掌握すると、クレーの作品は退廃芸術の烙印を押され、彼はスイスへの亡命を余儀なくされる。この時代の抑圧と悲劇的な社会状況は、彼の晩年の作品に色濃く反映されている。 クレーの天使たちは、しばしばユーモラスでありながらも、どこか哀しみや不完全さを帯びている。特に『泣いている天使』は、その伏し目がちな表情から静かに涙を流す姿が描かれており、観る者に深い悲しみを呼び起こす。この天使の涙は、病に苦しむクレー自身の個人的な悲しみであると同時に、第二次世界大戦へと向かう時代の悲劇的な状況を嘆く、集団的な感情の表出であったと解釈できる。クレーの天使は、画家個人の内面的な感情を吐露する存在であると同時に、20世紀の集合的なトラウマを視覚化した存在でもあった。 天使というモチーフの芸術的・象徴的意味 Altkluger Engel by Paul Klee / Public domain クレーの天使連作が持つ意義は、単なる伝記的背景に限定されない。彼はこのモチーフを通じて、自身の芸術哲学を具現化し、生命や存在の本質について深く考察している。 「あいだの存在」としての天使:生と死、天と地の媒介者 西洋美術の伝統において、天使は完璧で愛らしい、あるいは威厳のある有翼の存在として描かれてきた。しかし、クレーの描く天使は、その伝統的なイメージから大きく逸脱している。彼らの姿は不完全で未熟であり、時には翼すら持たない。この一見すると稚拙な造形は、実はクレーの芸術哲学の核心、すなわち両極のあいだのバランスを取ることを象徴している。 クレーの天使は、天と地、精神と肉体、完成と未完成といった両極の間に位置する「あいだの存在」である。例えば『おませな天使』の顔には、片方の黒目が上を、もう片方が下を向いているように描かれている。これは、神のいる天上と人間のいる地上の両方を見つめ、両者を仲介するという天使本来の役割を象徴的に表現していると考えられる。また、天使の未完成な姿は、物理的な制約(病気)の痕跡であると同時に、彼の芸術哲学が重視した生成の途上にあるものの具現化でもあった。クレーは、この不完全な存在を通じて、生命が常に完成へ向かう運動の中にあるという思想を描き出したのである。 線と運動の哲学:生成し続ける生命の痕跡 クレーにとって線は単なる形を描くための手段ではなく、画家が内的な運動を可視化する痕跡であった。彼は線描画を「魂の即興画」と呼び、点が線を生み、線が空間を創造していくプロセスを、宇宙の創造にもなぞらえた。 晩年の天使シリーズにおける一筆書きのようなシンプルな線描は、病によって手が不自由になった結果生まれたものではあるが、その一方で、クレーが追い求めた創造の根源的なエネルギーそのものであるという二重性を持つ。この線は、画家の内的な生命力が形となり、作品が生成する過程そのものを表しているのである。例えば『忘れっぽい天使』は、目を閉じて物思い思にふける姿で描かれているが、これは単に何かを考えている様子ではなく、思考という精神的な運動そのものを形象化したものであると解釈できる。肉体的な衰えに反比例するように、彼の最後の線は、より純粋で、深い精神性を帯びるに至った。 プロポーションの破壊と多視点性:キュビスム的思考との接点 クレーの天使たちが持つ、一見して不自然な人体のプロポーションは、単なるプリミティヴな描写の回帰ではない。彼の作品に見られる顔の部位の分解や、再構成された配置は、西洋のデッサン伝統からの意図的な逸脱である。例えば、『希望に満ちている天使』は、正面向きの顔に両眼が互いに逆を向いて配置されている。このような複数の視点を一つの画面に集約する手法は、同時代の前衛芸術であるキュビスム的思考に基礎を置くものと考えられる。 この視点の多重性は、クレーの芸術が単なる素朴な表現ではなく、深い知的探求と実験の上に成り立っていることを示している。彼の単純さは、伝統的なアカデミズムを深く理解した上での、独自の芸術的解決策であった。彼は、人間が持つ複数の側面や、天と地の間に生きる天使の多層的な存在を、固定された視点ではなく、複数の視点から再構築することで表現しようと試みたのである。 ヴァルター・ベンヤミンと「歴史の天使」 Angelus Novus by Paul Klee / Public domain クレーの天使連作の中でも、特に1920年の『新しい天使』は、ドイツのユダヤ人思想家ヴァルター・ベンヤミンとの運命的な結びつきによって、単なる芸術作品を超えた哲学的な象徴となった。 運命的な出会い:クレーの絵画がベンヤミンの思想を具現化した瞬間 ベンヤミンは1921年に『新しい天使』を購入し、ナチスから亡命する際も常にこの絵画を携行した。彼が自殺を遂げた1940年、この絵画は友人に託され、後に彼の思想を研究したゲルショム・ショーレムに受け継がれた。興味深いことに、クレーもまたこの同じ年にこの世を去っている。この共通の運命が、芸術家と哲学者の間に、計り知れない歴史的な重みを与えている。 ベンヤミンにとって、この絵画は単なる所有物ではなく、彼の歴史哲学の核心をなす「歴史の天使」の姿を具現化したものであった。彼の思想が、この一枚の絵を起点として形成されたことは、芸術が哲学に与えた影響の最も顕著な例の一つである。 ベンヤミンの『歴史の概念について』:進歩史観への痛烈な批判 ベンヤミンは、歴史を均質で空虚な時間の連続とみなし、現在を終点とする勝利者の物語として捉える一般的な歴史観を痛烈に批判した。彼は代わりに、歴史を今の時に満ちた不連続な粒(モナド)の集まりであると考えた。 この文脈で、彼は『歴史の概念について』の中でクレーの『新しい天使』を引用し、歴史を直視する天使の姿を描写する。天使は顔を過去に向けており、そこには瓦礫の上に瓦礫が積み重なっている破局の連鎖しか見ていない。この瓦礫の山は、歴史の勝者が葬り去った敗者たちの無数の失敗や願望を象徴している。ベンヤミンは、歴史の天使がこの破局を修復し、死者たちを目覚めさせたいと願っている一方で、楽園から吹きつける嵐、すなわち私たちが進歩と呼ぶ強風に背を向けて抗いようもなく未来へと押し流されていく姿を描写した。 「歴史の天使」の解釈:過去の瓦礫と未来へ向かう嵐 ベンヤミンの歴史の天使は、単なる過去の悲劇に対する絶望の象徴ではない。天使の視線は、過去の瓦礫の中から、勝利者の歴史によって無視されてきた敗者たちの未遂に終わった希望や願望を今の時において救済しようとする、革命的な使命を帯びている。 この哲学的な解釈は、クレーが描いた天使の不完全さと哀しみ、そして時代への深い共感が、単なる個人的な表現を超え、普遍的な問いかけとなっていることを示している。天使を未来へと押し流す進歩という名の嵐は、現代においても私たちに、過去の悲劇から目を背けずに、その責任を継承していくことの重要性を問いかけ続けているのである。 クレーの天使連作の遺産と現代的意義 Schellen Engel by Paul Klee / Public domain クレーの天使連作は、彼の芸術的探求の頂点であり、その深い精神性と普遍的なメッセージは、現代の芸術や思想にも多大な影響を与え続けている。 晩年の芸術的完成と遺産 クレーの晩年期は、病による身体的制約に苦しみながらも、彼の芸術が究極的な純粋性と力強さを獲得した時期である。簡素な線と象徴的な形に集約された天使たちは、形式的な装飾性から解放され、より本質的な精神性へと導かれた彼の芸術的完成を象徴している。このシンプルで力強い表現は、彼の作品に時代を超越した普遍的な強さを与えた。クレーの天使連作は、その親しみやすい造形と深い内包性によって、谷川俊太郎の詩集『クレーの天使』など、文学を含む様々な分野に影響を与え、その遺産は今もなお生き続けている。 主要作品の所蔵機関と来歴 クレーの天使連作は、世界中の美術館に所蔵されており、特に重要な作品の多くはスイスのパウル・クレー・センターに収蔵されている。 作品名(日本語/ドイツ語) 制作年 材質 寸法(cm) 所蔵機関 新しい天使 / Angelus Novus 1920年 油彩転写、水彩 31.8 x 24.2 イスラエル博物館、エルサレム 忘れっぽい天使 / Vergesslicher Engel 1939年 鉛筆、紙、厚紙 29.5 x 21 パウル・クレー・センター、ベルン 泣いている天使 / Es Weint 1939年 不明 不明 不明 鈴をつけた天使 / Schellen Engel 1939年 不明 不明 不明 日本の美術館にもクレーの作品が所蔵されており、日本における彼の芸術への深い受容を示している。愛知県美術館には『女の館』(1921年)や『蛾の踊り』(1923年)、アーティゾン美術館には『島』(1932年)や『小さな抽象的-建築的』(1915年)などが収蔵されている。 クレーの天使が示す、絶望の時代における希望 Engel, noch tastend by Paul Klee / Public domain クレーの天使連作は、彼が晩年に直面した個人的な身体の苦痛と、ナチスの台頭という時代の政治的抑圧という二重の絶望の中から生まれた。しかし、これらの作品は悲哀に満ちている一方で、深い知性と温かいユーモア、そして人間の精神の不屈の強さを伝えている。 彼が描いた天使の不完全さや未熟さは、肉体的な制約から生まれたものでありながら、同時に彼の芸術哲学である生成の途上にあるものの具現化でもあった。また、ベンヤミンがこの天使に託した歴史哲学は、私たちが当たり前のように受け入れている進歩という概念を問い直し、歴史の影に埋もれた敗者たちの声に耳を傾けることの重要性を教えてくれる。 クレーの天使は、絶望の時代に生まれながらも、私たちに希望と、過去の悲劇に対する責任、そして人間の精神が絶え間ない運動の中でより純粋なものへと進化していく可能性を伝えている。クレーの天使連作は、今後も美術史、哲学、そして個人的な思索の領域において、時代を超えて普遍的な問いかけを投げかけ続けるだろう。 YouTubeクレーの天使の絵 コメント 新しい投稿 前の投稿
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